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禁煙
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先日のDVD小津安二郎の『秋日和』につづき、テレビで山本薩夫の『金環蝕』、『白い巨塔』を観た。
それぞれ昭和35(1960)年、昭和50(1975)年、昭和41(1966)年に製作された名作である。
映画の内容はともかくも、驚くべきは劇中の男たちのその異常なほどのニコチン依存っぷりである。
それはもう絶えずというか所構わずで、なにしろ国会の予算委員会の議場においてもみんな豪快に喫煙している世界である。人と会えば一服、会議で窮したら一服という調子で、しかも「煙草吸っていいですか?」とか「すみません、煙草はご遠慮いただいてます・・」とかのいまふうな日和った台詞はいっさい登場しない。
大体がこの時代、「禁煙」或いは「煙草は健康を害する薬物である」という概念そのものが存在していなかったのではあるまいか。
記憶をたどると病院の待合室、映画館、デパートの階段など、確かに今では考えられない場所で喫煙が許されていた。駅の構内での喫煙が制限されたのなどはつい最近の事だ。
考えてみれば、我々の親世代である昭和一桁生まれというのも災難である。育ち盛りの時は戦中戦後で満足な栄養を与えられず、成人して高度経済成長に身を捧げる只中では煙草の害に無防備に晒されていたということか。
と、タバコを断って三週間目に入って思うことである。
![秋日和 [DVD]](http://ecx.images-amazon.com/images/I/51Gm5bMm7JL._SL160_.jpg)

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それぞれ昭和35(1960)年、昭和50(1975)年、昭和41(1966)年に製作された名作である。
映画の内容はともかくも、驚くべきは劇中の男たちのその異常なほどのニコチン依存っぷりである。
それはもう絶えずというか所構わずで、なにしろ国会の予算委員会の議場においてもみんな豪快に喫煙している世界である。人と会えば一服、会議で窮したら一服という調子で、しかも「煙草吸っていいですか?」とか「すみません、煙草はご遠慮いただいてます・・」とかのいまふうな日和った台詞はいっさい登場しない。
大体がこの時代、「禁煙」或いは「煙草は健康を害する薬物である」という概念そのものが存在していなかったのではあるまいか。
記憶をたどると病院の待合室、映画館、デパートの階段など、確かに今では考えられない場所で喫煙が許されていた。駅の構内での喫煙が制限されたのなどはつい最近の事だ。
考えてみれば、我々の親世代である昭和一桁生まれというのも災難である。育ち盛りの時は戦中戦後で満足な栄養を与えられず、成人して高度経済成長に身を捧げる只中では煙草の害に無防備に晒されていたということか。
と、タバコを断って三週間目に入って思うことである。
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禁煙
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もっと快適に自転車で坂を登りたいという一念から禁煙して二週間。
離脱症状は大部とおさまった。
禁煙にあたっていろいろと本やネットにあたったところ、そもそも「禁煙」という呼び名がいけないらしい。何かを禁じると思うと「煙草を吸わない」という行為そのものがネガティブで、何かしら途轍もなく大きな損失であるかのように感じてしまうのだと。
「煙草を必要としない生き方」を選択したのだ、煙草から解放された生活を獲得していくのだ、そしてその先には今よりもずっと素敵な毎日が待っているのだ・・・というポジティブさが大切であるらしい。
よって、「禁煙」あるいは「断煙」ではなく、「卒煙」と呼べと。
なるほどと思う。
何よりこの「卒煙」という言葉には、「これまでありがとう、お世話になりました・・・」と、いうようなニュアンスが響くところが素晴らしい。

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離脱症状は大部とおさまった。
禁煙にあたっていろいろと本やネットにあたったところ、そもそも「禁煙」という呼び名がいけないらしい。何かを禁じると思うと「煙草を吸わない」という行為そのものがネガティブで、何かしら途轍もなく大きな損失であるかのように感じてしまうのだと。
「煙草を必要としない生き方」を選択したのだ、煙草から解放された生活を獲得していくのだ、そしてその先には今よりもずっと素敵な毎日が待っているのだ・・・というポジティブさが大切であるらしい。
よって、「禁煙」あるいは「断煙」ではなく、「卒煙」と呼べと。
なるほどと思う。
何よりこの「卒煙」という言葉には、「これまでありがとう、お世話になりました・・・」と、いうようなニュアンスが響くところが素晴らしい。
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自転車
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近頃自転車にはまっている。
もとはといえば、二十代の頃買ったロードレーサーテイストの自転車「ブリジストンレイダック」を二十数年ぶりに実家から連れて帰ったことからだった。
毎朝、家の周辺をキコキコと走るうちに、もっと速く走りたい、もっと坂道を力強く登りたいというまるでアスリートのような渇望が芽生えてきた。
で、タバコをやめることにした。二十数年、毎日欠かすことなく40本近く吸っていたのに。
生来、スポーツやアウトドアには縁の薄い生き方を送ってきた。
タバコをやめて、自転車で走る・・・?いってこい?の収支で捉えるなら素晴らしくいいことではないか。

▲レイダック号と関門海峡

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もとはといえば、二十代の頃買ったロードレーサーテイストの自転車「ブリジストンレイダック」を二十数年ぶりに実家から連れて帰ったことからだった。
毎朝、家の周辺をキコキコと走るうちに、もっと速く走りたい、もっと坂道を力強く登りたいというまるでアスリートのような渇望が芽生えてきた。
で、タバコをやめることにした。二十数年、毎日欠かすことなく40本近く吸っていたのに。
生来、スポーツやアウトドアには縁の薄い生き方を送ってきた。
タバコをやめて、自転車で走る・・・?いってこい?の収支で捉えるなら素晴らしくいいことではないか。

▲レイダック号と関門海峡
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本・映画・音楽
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ブログだけでなく、先月はなかなか読書もはかどらず。
近頃小さい文字が読みづらくなったせいもあるか。
『「常識」の日本史
』 井沢元彦
『英傑の日本史―新撰組・幕末編
』 井沢元彦
『たまたま―日常に潜む「偶然」を科学する
』 レナード・ムロディナウ
『子米朝
』 桂米團治
『雑学大全
』 東京雑学研究会
『と学会年鑑 (Rose)
』 と学会
『トンデモ偽史の世界
』 原田 実
『「日本」という国―歴史と人間の再発見
』 梅原 猛, 上田 正昭
『名画で読み解く ハプスブルク家12の物語
』 中野京子
『続・物理の散歩道
』 ロゲルギスト
『ナゴム、ホラーライフ 怖い映画のススメ
』 綾辻行人、牧野修
『ボトルネック
』 米澤穂信
『儚い羊たちの祝宴
』 米澤穂信
ラスト一行で読者に与える衝撃?フィニッシング・ストローク?なる手法に拘った異色の短編集。となるとどうしてもその衝撃の度合いや幕切れの鮮やかさによって評価してしまうが、純粋なミステリとしても充分に上質だ。
『聖女の救済
』 東野圭吾
長編の『ガリレオシリーズ』は物理トリックではなく、?論理的には充分ありえたかもしれない不可能犯罪?を扱う。前作『容疑者xの献身』に共通するのは、犯行に関わる?行為?の?静けさ?だ。それにしても相変わらずタイトルの付け方が上手い。
『数学嫌いな人のための数学―数学原論
』 小室直樹
ソクラテスの時代より西洋で醸成されてきた「形式論理学」という概念。結論を導き出す思考回路が我々東洋人と彼らとは根本的に異なっている。このような論争相手を撃破するための術を身に付ける系統的な学問というのは、とりわけ我々日本人のメンタリティーとは遠いものかもしれない。


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近頃小さい文字が読みづらくなったせいもあるか。
『「常識」の日本史
『英傑の日本史―新撰組・幕末編
『たまたま―日常に潜む「偶然」を科学する
『子米朝
『雑学大全
『と学会年鑑 (Rose)
『トンデモ偽史の世界
『「日本」という国―歴史と人間の再発見
『名画で読み解く ハプスブルク家12の物語
『続・物理の散歩道
『ナゴム、ホラーライフ 怖い映画のススメ
『ボトルネック
『儚い羊たちの祝宴
ラスト一行で読者に与える衝撃?フィニッシング・ストローク?なる手法に拘った異色の短編集。となるとどうしてもその衝撃の度合いや幕切れの鮮やかさによって評価してしまうが、純粋なミステリとしても充分に上質だ。
『聖女の救済
長編の『ガリレオシリーズ』は物理トリックではなく、?論理的には充分ありえたかもしれない不可能犯罪?を扱う。前作『容疑者xの献身』に共通するのは、犯行に関わる?行為?の?静けさ?だ。それにしても相変わらずタイトルの付け方が上手い。
『数学嫌いな人のための数学―数学原論
ソクラテスの時代より西洋で醸成されてきた「形式論理学」という概念。結論を導き出す思考回路が我々東洋人と彼らとは根本的に異なっている。このような論争相手を撃破するための術を身に付ける系統的な学問というのは、とりわけ我々日本人のメンタリティーとは遠いものかもしれない。

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考えたこと
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一ヶ月もブログ休みました。
事業仕分けやら普天間基地問題やら圓楽師匠の訃報やら、ネタは山ほどあったのですが。
どうも頭の中でブログを書くのに使う部分と、仕事で使うどこかの部分が排他的に共有されてるのではないかと思ったりします。よくわかりませんけれど・・・
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本・映画・音楽
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『伊勢神宮の暗号
』 関 裕二
『資本主義はなぜ自壊したのか 「日本」再生への提言
』 中谷 巌
『日本の世界遺産 秘められた知恵と力
』 NHK「世界遺産」プロジェクト, 河邑 厚徳
『理系バカと文系バカ
』 竹内 薫 嵯峨野 功一
『新潮文庫20世紀の100冊
』 関川夏央
『ルーヴル美術館 (別冊太陽)
』 ハナブサ リュウ★★
『功利主義者の読書術
』 佐藤 優
『天皇と歴代遷宮の謎
』 関 裕二
『「幕末」15年・7大事件で歴史の真相を大整理
』 菊地 明
『水中眼鏡(ゴーグル)の女
』 逢坂 剛★★
『歌舞伎にすと入門
』 辻 和子
『中学生からの哲学「超」入門―自分の意志を持つということ
』 竹田青嗣
『国家の正体
』 日下公人
『近未来入門!
』 あさのあつこ/福江純★
『9の扉 リレー短編集
』 北村 薫、法月綸太郎、麻耶雄嵩、貫井徳郎、歌野昌午 他★★
『人類が知っていることすべての短い歴史
』 ビル ブライソン★★★★★
677ページの分厚い本であるが、ずっと読み続けていたいほどの面白さだった。
宇宙の起源から、生物、物理、地学に亘る我々文系の者が一括りで「科学」と呼ぶ世界を、丁度いい加減の間合いで垣間見ることができる。これまで科学には無縁の作家が著したそうで、その分それぞれの発見に到る過程の描写は実にドラマチックだ。
それにしても、ラジウムの発見で知られるキューリー夫人だが、彼女の遺した文書や愛用の品々は死後70年を過ぎた今でもなお、素手で触れてはならない程の強力な放射能を放出しつづけているらしい。
『死とは何か さて死んだのは誰なのか
』 池田晶子★★★★
これまでも何度か触れた池田晶子の本。
彼女はずっと「哲学を論じること」と「物事を哲学的に考えること」は全くの別物であると言い続けていた。
目の前に出現する様々な現実の事象や、自身の心の中に湧き起こる感情こそが?考える?対象であると。
叶うことなら間近で接してみたかった。
『怖い話
』 福澤 徹三★★
ここに集められた?怖い話?とは、怪奇や心霊現象というよりもむしろ、回転寿司でその日入りたてのバイトが見るからに不衛生な手で寿司を握っていた・・・・とか、過去にはこれほど過酷な刑罰が実在した・・・という類の?怖さ?である。エピソードに当たり外れはあるが、この編集は新しい。
『贖罪
』 湊 かなえ
陰鬱な読後感と?悪意?に満ち満ちた文章の波状攻撃という独自の路線をひた走る湊かなえ。それだけで充分値打ちはあるのだから、殊更にミステリーの要素を加えなくていいのに・・・・と思う。

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『資本主義はなぜ自壊したのか 「日本」再生への提言
『日本の世界遺産 秘められた知恵と力
『理系バカと文系バカ
『新潮文庫20世紀の100冊
『ルーヴル美術館 (別冊太陽)
『功利主義者の読書術
『天皇と歴代遷宮の謎
『「幕末」15年・7大事件で歴史の真相を大整理
『水中眼鏡(ゴーグル)の女
『歌舞伎にすと入門
『中学生からの哲学「超」入門―自分の意志を持つということ
『国家の正体
『近未来入門!
『9の扉 リレー短編集
『人類が知っていることすべての短い歴史
677ページの分厚い本であるが、ずっと読み続けていたいほどの面白さだった。
宇宙の起源から、生物、物理、地学に亘る我々文系の者が一括りで「科学」と呼ぶ世界を、丁度いい加減の間合いで垣間見ることができる。これまで科学には無縁の作家が著したそうで、その分それぞれの発見に到る過程の描写は実にドラマチックだ。
それにしても、ラジウムの発見で知られるキューリー夫人だが、彼女の遺した文書や愛用の品々は死後70年を過ぎた今でもなお、素手で触れてはならない程の強力な放射能を放出しつづけているらしい。
『死とは何か さて死んだのは誰なのか
これまでも何度か触れた池田晶子の本。
彼女はずっと「哲学を論じること」と「物事を哲学的に考えること」は全くの別物であると言い続けていた。
目の前に出現する様々な現実の事象や、自身の心の中に湧き起こる感情こそが?考える?対象であると。
叶うことなら間近で接してみたかった。
『怖い話
ここに集められた?怖い話?とは、怪奇や心霊現象というよりもむしろ、回転寿司でその日入りたてのバイトが見るからに不衛生な手で寿司を握っていた・・・・とか、過去にはこれほど過酷な刑罰が実在した・・・という類の?怖さ?である。エピソードに当たり外れはあるが、この編集は新しい。
『贖罪
陰鬱な読後感と?悪意?に満ち満ちた文章の波状攻撃という独自の路線をひた走る湊かなえ。それだけで充分値打ちはあるのだから、殊更にミステリーの要素を加えなくていいのに・・・・と思う。
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考えたこと
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政権交替後初の臨時国会が開会した。
まだ代表質問だから、試されるのはディベート力というよりもむしろアジテーション(扇動)力のようだ。
今回の応酬をみて思う。日本語はこうした演説やアジテーションにはそもそも不向きな言語なのではないか。
ディベートの場合は姜尚中のような?ウィスパーボイス?という裏技も有効であるが、演説となると話は別である。
バイリンガルのように外国語を直に認識することができないので確かなことは言えないが、こういうシーンでは述語が主語の直後に置かれる構造の言語がやはり似つかわしく、『あなたは変えることが出来る、この国を!』とか『私は信じる、経済の復興を!』というフレーズには確かに相当破壊的な訴求力がある。
日本語の場合、『あなたはこの国を変えることが出来るのです。』、『私は経済の復興を信じます。』と、語尾が助動詞となってしまうから、どうしてもその出力は減衰する。
だが、どうしてもアジテートしたい場合もあるだろう。そこで出てくるのが『・・・である。』というスタイルだ。
政治団体や宗教団体などのアジテーターたちが決まってこの『であ?る。』スタイルを用いるは、彼らがその威力を知っているからなのだろう。
ただ、これには欠点があって、聴く者のマインドを制圧するまでにその言葉が心の奥底に届けばよいのであるが、中途半端に寸止めとなると、ただの不遜で高圧的な人物というネガティブな印象しか与えない「諸刃の剣」となってしまうことだ。だから、身内の会合程度ならまだしも、国会や街頭などでは使えないのである。
大体が日本語には?絶叫?は似合わないのだ。この辺りは農耕民族と狩猟民族それぞれにおける人と人との関係性や、求められるリーダー像の違いも関係していよう。英語のように0と1が明確なデジタル系の言語に比して、聴き様によっては何とでもとれるようなアナログ系の言語ともいえる日本語であるが、その曖昧さと柔らかさによってこそ私たち日本人のメンタリティーやコミュニティーの礎である?和?は育まれてきたのかもしれない。
その破壊的あるいは陶酔的アジテーションに対しての?抗体?のなさは、それに遭遇した時の脆弱さも同時に併せ持つのかもしれないが。

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まだ代表質問だから、試されるのはディベート力というよりもむしろアジテーション(扇動)力のようだ。
今回の応酬をみて思う。日本語はこうした演説やアジテーションにはそもそも不向きな言語なのではないか。
ディベートの場合は姜尚中のような?ウィスパーボイス?という裏技も有効であるが、演説となると話は別である。
バイリンガルのように外国語を直に認識することができないので確かなことは言えないが、こういうシーンでは述語が主語の直後に置かれる構造の言語がやはり似つかわしく、『あなたは変えることが出来る、この国を!』とか『私は信じる、経済の復興を!』というフレーズには確かに相当破壊的な訴求力がある。
日本語の場合、『あなたはこの国を変えることが出来るのです。』、『私は経済の復興を信じます。』と、語尾が助動詞となってしまうから、どうしてもその出力は減衰する。
だが、どうしてもアジテートしたい場合もあるだろう。そこで出てくるのが『・・・である。』というスタイルだ。
政治団体や宗教団体などのアジテーターたちが決まってこの『であ?る。』スタイルを用いるは、彼らがその威力を知っているからなのだろう。
ただ、これには欠点があって、聴く者のマインドを制圧するまでにその言葉が心の奥底に届けばよいのであるが、中途半端に寸止めとなると、ただの不遜で高圧的な人物というネガティブな印象しか与えない「諸刃の剣」となってしまうことだ。だから、身内の会合程度ならまだしも、国会や街頭などでは使えないのである。
大体が日本語には?絶叫?は似合わないのだ。この辺りは農耕民族と狩猟民族それぞれにおける人と人との関係性や、求められるリーダー像の違いも関係していよう。英語のように0と1が明確なデジタル系の言語に比して、聴き様によっては何とでもとれるようなアナログ系の言語ともいえる日本語であるが、その曖昧さと柔らかさによってこそ私たち日本人のメンタリティーやコミュニティーの礎である?和?は育まれてきたのかもしれない。
その破壊的あるいは陶酔的アジテーションに対しての?抗体?のなさは、それに遭遇した時の脆弱さも同時に併せ持つのかもしれないが。
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少し前に読書評の項で桜林美佐の『終わらないラブレター 祖父母たちが語る「もうひとつの戦争体験」 』について、「内容はともかくもその構成に大きな問題があるように思う・・・」と、書いたが、それについて。
本の紹介には「あの時代は本当に「暗い時代」だったのか。後世に伝え残したい「日本人として生きた」先人たちの物語。」とある。
存命の人々への取材を通じて、あの時代を遠い昔の「歴史」としてではなく、現在と連続した「出来事」として捉える。それはとても意味のある作業だと思う。
違和感を覚えるのは、その文中の随所に筆者の?手?が垣間見えてくることだ。
そもそもルポルタージュとは何か。
ある表現者が一つのメッセージを伝えたいとしよう。それは物語のかたちで表すこともできるし、詩に表すこともできる。その幾つもの手法の中で、「取材を通じて収集した事実の提示」によってそれを伝えようとするのがルポルタージュなのではないのか。書き手本人が語りたいのであれば随筆あるいは論文の中で直接記せばよい。
作中の「ルポ」の部分に登場する人々は、あの時代の空気やその時生きていた者たちの魂を確かな質量で読者に伝える。ただそれをどのように解釈し、自身を感化していくかはあくまでも読み手の側に委ねるべきだったのではないか。「私はこう思う・・」だとか「それに比べて今はどうだ・・・」などという形で頻出する筆者の?手?はそれを妨げるものでしかない。
省みればこのことは私たちのデザインの領域でもまた同様である。
映像であれグラフィックであれ、努めるべきは意志や情報を「訴求する側」と「受け取る側」の感性を高い純度で?直結?させることである。デザインはその手段であり、制作者はそれを介する媒体にしか過ぎない。だから、そこに作者の?手?を不用意に見せてはいけないのだ、と思っている。


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本の紹介には「あの時代は本当に「暗い時代」だったのか。後世に伝え残したい「日本人として生きた」先人たちの物語。」とある。
存命の人々への取材を通じて、あの時代を遠い昔の「歴史」としてではなく、現在と連続した「出来事」として捉える。それはとても意味のある作業だと思う。
違和感を覚えるのは、その文中の随所に筆者の?手?が垣間見えてくることだ。
そもそもルポルタージュとは何か。
ある表現者が一つのメッセージを伝えたいとしよう。それは物語のかたちで表すこともできるし、詩に表すこともできる。その幾つもの手法の中で、「取材を通じて収集した事実の提示」によってそれを伝えようとするのがルポルタージュなのではないのか。書き手本人が語りたいのであれば随筆あるいは論文の中で直接記せばよい。
作中の「ルポ」の部分に登場する人々は、あの時代の空気やその時生きていた者たちの魂を確かな質量で読者に伝える。ただそれをどのように解釈し、自身を感化していくかはあくまでも読み手の側に委ねるべきだったのではないか。「私はこう思う・・」だとか「それに比べて今はどうだ・・・」などという形で頻出する筆者の?手?はそれを妨げるものでしかない。
省みればこのことは私たちのデザインの領域でもまた同様である。
映像であれグラフィックであれ、努めるべきは意志や情報を「訴求する側」と「受け取る側」の感性を高い純度で?直結?させることである。デザインはその手段であり、制作者はそれを介する媒体にしか過ぎない。だから、そこに作者の?手?を不用意に見せてはいけないのだ、と思っている。

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人間なんて幾つになってもそんなに変わらないものなのだ。と、近頃歳を重ねるごとに思う。
若い頃は「中年」とか「老人」という世代は自分とは全く異種の存在で、自分も含め人間はある年齢を境にそれぞれに変異していくくらいに思っていた。高齢になれば次第に演歌を聴き出し、ループタイを締め、饅頭や羊羹を好み、女性は縮緬のスラックスを履きだすのだと。
当時のお年寄りというのは、一般的に絵に描いたような「老人」だったせいもあるが、今にしてみればそれはとんでもない誤りであった。
先年、父の葬儀の折に父の友人たちが語ってくれたその様子は、他愛もないことに熱中し、何でもないことに屈託なく笑い興じる、私たちが普段見たことのない無邪気な父の姿だった。
今の私と何も違わない。違うとすればその無邪気な部分をどこでどこまで開放するかというその?分別?だけであろう。
おそらく幼少の頃に形作られた人間の原型のようなものは、それほどに大きくは変わることはないのだろう。社会における様々な属性の中での役回りが変わっていくだけだ。
かつて「歳をとることによる変容」と思えていたものも、結局その原型が形成されるなかで組み込まれた体験に拠って、その時々で最も好ましいと思うものを選択していただけのことだと思う。
きっと私たちはこれからもずっと昭和の子供たちなのだ。
いつまでも特撮ヒーローが好きで、チョコが好きで、ジーンズとかを履いたり、芸能人にアイドル像を求めたりするのだろう。そして街で綺麗な女性とすれ違えば当たり前に振り返ったりするし、友人同士では他愛のない話に一喜一憂したりするに違いない。
その先の未来では、老人たちがゲームに熱中し、HIPHOPを聴きながらその時の若者たちを憂いたりするのだ。

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若い頃は「中年」とか「老人」という世代は自分とは全く異種の存在で、自分も含め人間はある年齢を境にそれぞれに変異していくくらいに思っていた。高齢になれば次第に演歌を聴き出し、ループタイを締め、饅頭や羊羹を好み、女性は縮緬のスラックスを履きだすのだと。
当時のお年寄りというのは、一般的に絵に描いたような「老人」だったせいもあるが、今にしてみればそれはとんでもない誤りであった。
先年、父の葬儀の折に父の友人たちが語ってくれたその様子は、他愛もないことに熱中し、何でもないことに屈託なく笑い興じる、私たちが普段見たことのない無邪気な父の姿だった。
今の私と何も違わない。違うとすればその無邪気な部分をどこでどこまで開放するかというその?分別?だけであろう。
おそらく幼少の頃に形作られた人間の原型のようなものは、それほどに大きくは変わることはないのだろう。社会における様々な属性の中での役回りが変わっていくだけだ。
かつて「歳をとることによる変容」と思えていたものも、結局その原型が形成されるなかで組み込まれた体験に拠って、その時々で最も好ましいと思うものを選択していただけのことだと思う。
きっと私たちはこれからもずっと昭和の子供たちなのだ。
いつまでも特撮ヒーローが好きで、チョコが好きで、ジーンズとかを履いたり、芸能人にアイドル像を求めたりするのだろう。そして街で綺麗な女性とすれ違えば当たり前に振り返ったりするし、友人同士では他愛のない話に一喜一憂したりするに違いない。
その先の未来では、老人たちがゲームに熱中し、HIPHOPを聴きながらその時の若者たちを憂いたりするのだ。
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広島・長崎両市のオリンピック開催招致に反対する。
ずっと広島で生まれ育った。8月6日は一斉登校日だった。核兵器の悲惨さや戦争の惨さは理解しているつもりである。両市が世界に向けて訴求し続ける「非核による平和」という行動もけっして無意味ではないと思う。
それでも、オリンピックは開催すべきではない。
先の記事で東京敗北に触れた際に「環境というスポーツ以外の要素、とりわけ誰も異を唱えられないような人類共通のテーゼを御旗として掲げることはアンフェアである。」と書いた。
オリンピックを政治利用の装置にしてはならない。例えそれがどれほど崇高な理念であってもだ。それが許されるのであれば「動物愛護五輪」や「民族紛争和解五輪」、「男女共同参画五輪」など何でもありとなってしまう。しかもその多くは今回の東京同様それはその都市が勝利するために持ち出した極めて怪しげな?方便?と成り果てるかもしれない。
近代オリンピックの父」と呼ばれるピエール・ド・クーベルタン男爵はこう唱えた。
「オリンピックの理想は人間を作ること、つまり参加までの過程が大事であり、オリンピックに参加することは人と付き合うこと、すなわち世界平和の意味を含んでいる・・・」
確かにそこには平和への強い希求がこめられている。
しかしそこにいう?平和?とはあくまでも?状態としての平和?であり、また?結果としての平和?である。
それに対して核廃絶というのはその状態に到達するための一つの?手段?である。?手段?であるからこそ各国の思惑が複雑に交錯する?政治問題?となるのだ。
そもそも「平和」とは何か。
「平和」の対義語は「戦争」ではなく「混沌」つまり無秩序な状態である。
現在我々が「平和」と呼ぶ世界はどうか。かつてアメリカではネイティブアメリカンが理想国家の秩序を乱す因子であるとして駆除され、また世界各地では異教徒がその秩序の為に攻撃され、「民族浄化」の名の下に幾多の迫害が為されてきた。そうして獲得されてきたのが「平和」である。言い換えるならば、?国家?とは暴力と征服のトーナメントを勝ち上がってきた者たちの最終到達点である。
世界が一つの強権的なウルトラ国家によって支配されれば戦争はなくなり、秩序は生まれる。しかしそれは果たして望むべき「平和」に値するのか。それぞれの地域、民族がそれぞれの文化や伝統を破棄し、新たな秩序の為に新たな秩序に従うことは讃えるべき「平和」と呼べるのか。
「核廃絶」は平和を獲得するに有効な一つのアプローチであるが、それはあくまでも?手段?であって?目的?ではない。
「平和」をアピールすること以上に大切な広島・長崎の使命は、核兵器を「使われた側」としてその惨さ、そしてそれは人類がけっして用いてはいけないものであるということを世界に示し続けることにあると思っている。

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ずっと広島で生まれ育った。8月6日は一斉登校日だった。核兵器の悲惨さや戦争の惨さは理解しているつもりである。両市が世界に向けて訴求し続ける「非核による平和」という行動もけっして無意味ではないと思う。
それでも、オリンピックは開催すべきではない。
先の記事で東京敗北に触れた際に「環境というスポーツ以外の要素、とりわけ誰も異を唱えられないような人類共通のテーゼを御旗として掲げることはアンフェアである。」と書いた。
オリンピックを政治利用の装置にしてはならない。例えそれがどれほど崇高な理念であってもだ。それが許されるのであれば「動物愛護五輪」や「民族紛争和解五輪」、「男女共同参画五輪」など何でもありとなってしまう。しかもその多くは今回の東京同様それはその都市が勝利するために持ち出した極めて怪しげな?方便?と成り果てるかもしれない。
近代オリンピックの父」と呼ばれるピエール・ド・クーベルタン男爵はこう唱えた。
「オリンピックの理想は人間を作ること、つまり参加までの過程が大事であり、オリンピックに参加することは人と付き合うこと、すなわち世界平和の意味を含んでいる・・・」
確かにそこには平和への強い希求がこめられている。
しかしそこにいう?平和?とはあくまでも?状態としての平和?であり、また?結果としての平和?である。
それに対して核廃絶というのはその状態に到達するための一つの?手段?である。?手段?であるからこそ各国の思惑が複雑に交錯する?政治問題?となるのだ。
そもそも「平和」とは何か。
「平和」の対義語は「戦争」ではなく「混沌」つまり無秩序な状態である。
現在我々が「平和」と呼ぶ世界はどうか。かつてアメリカではネイティブアメリカンが理想国家の秩序を乱す因子であるとして駆除され、また世界各地では異教徒がその秩序の為に攻撃され、「民族浄化」の名の下に幾多の迫害が為されてきた。そうして獲得されてきたのが「平和」である。言い換えるならば、?国家?とは暴力と征服のトーナメントを勝ち上がってきた者たちの最終到達点である。
世界が一つの強権的なウルトラ国家によって支配されれば戦争はなくなり、秩序は生まれる。しかしそれは果たして望むべき「平和」に値するのか。それぞれの地域、民族がそれぞれの文化や伝統を破棄し、新たな秩序の為に新たな秩序に従うことは讃えるべき「平和」と呼べるのか。
「核廃絶」は平和を獲得するに有効な一つのアプローチであるが、それはあくまでも?手段?であって?目的?ではない。
「平和」をアピールすること以上に大切な広島・長崎の使命は、核兵器を「使われた側」としてその惨さ、そしてそれは人類がけっして用いてはいけないものであるということを世界に示し続けることにあると思っている。
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テーマ:政治・経済・時事問題 - ジャンル:政治・経済











































